活動報告

AFTER REPORT『療法士の当事者研究を運営してみて』

田島明子

療法士の当事者研究と「臨床の知」(*外部リンクへ)

須藤誠

 第一回目の療法士の当事者研究会を終えてから今まで、たくさんのことに触れながら、考えてきました。熊倉先生の話を聞くまで、自分たちが何をやろうとしているのかは曖昧で、それはどんな影響力を持つかをあまり考えていませんでした。いや、考えること、向き合うことに少し恐れがあったのだと思います。結論から言うと、療法士の当事者研究は私たちが人として、支援者として成長するためにとても重要な位置づけになると感じました。熊倉先生の講義を聞いて、僕が何を考え、これからどう向き合うのかをお伝えできればと思います。

療法士の当事者研究をする意味

 僕は、なぜ療法士の当事者研究が必要なのかを長らく自問自答していました。僕の中には「必要だ」と主張する自分と「本当に必要か」を疑問視する二人の自分が存在するんです。必要側の自分は、「当事者研究はこれまで触れなかった新しいツールだから取り入れて悪いことはないだろう」と言っています。確かにその通りで、自分の成長のためにはたくさんの刺激や経験が必要になりますから、僕は全面的に納得しました。ただ、もう一人の自分が「本当に必要か」と尋ねてきます。例えば、成長するための方法は当事者研究以外にもたくさんありますから、あえて当事者研究をやる意味は何なのかと問われると良い答えが見つかりませんでした。また、当事者研究はもともと「当事者が自らの権利を守るためのツール」としての側面があることを知りました。つまり、当事者研究を療法士及び支援者が持つことは、当事者の武器を奪ってしまうかのようにも思います。ここで、必要側の自分が黙ってしまいました。

 少し時が経ち、必要側の自分が口を開きました。「療法士が武器を持ったとして、それはどこに振るうための武器なのだろうか?」と。必要側の自分は続けて、「療法士が当事者研究をする理由は、当事者を苦しめたいためでも、療法士に刃を向けるためでもない」と話します。もう一人の自分は「じゃあ、何のためだろう?」と問います。「療法士が自分自身と向き合うためじゃないか」と必要側の自分が声を大きくしました。もう一人の自分も「確かにそれならいいんじゃないかな」と頷きます。

僕にとっての当事者研究は「自分と向き合うこと」

 稚拙な方法ですが、僕は自分の中で意見が違う二人を外在化して、当事者研究に向き合ってみました。そこで得られたことは、「療法士が自分と向き合うということは、誰のためでもなく、自分自身の成長や考えをまとめるツールとして機能する」ということです。今、世界的に相互交流的なコミュニケーションが枯渇し、たくさんの考えや経験に触れる機会が少なくなっています。そんな中でも、当事者研究というツールは誰かを危険に脅かすこともなく、自分たちの成長を促してくれます。独り言かと馬鹿にする人もいるかもしれません。でも、それで良いのです。私は当事者研究に出会って、自分に向き合う方法を見つけることができました。これは自己満足で、誰かを責めるわけでも、自慢することでもありません。ただただ、自分と向き合う時間とツールがある、それだけだと僕は思うのです。

 さて、熊倉先生の講義の話に戻りますが、僕は支援者として、当事者よりも「知識や技術、支援の経験」に関しては強みがあると思います。反対に「当事者としての経験」については、当事者の方々の理解には到底及びません。いくら理解しようとしても理解できない領域がそこにはあると思うのです。また、支援者と当事者、というグループ分け自体に違和感を持つようになりました。例えば、僕は子供のころ転んでケガをしたことがたくさんありますが、大小はあれど、その時は当事者だったと思うんですね。つまり、どんな人にも当事者としての側面と支援者としての側面が含まれていると思うのです。そう考えた時、僕は初めて当事者研究をすることにやりづらさや引け目を感じなくなりました。当事者研究をするということは、すべての人に与えられているものだからです。ただ、当事者研究というツールを「何かに打ち勝つため」や「誰かに向ける凶器」のように扱ってはならないと思います。自分の強み、弱みに向き合い、時には吐き出したり、外在化して、答えがでなくてもそれを横目にみながら生きていく。そのような使い方があるのかなと。また、ここに書いたことは「当事者研究の答え」ではなく、あくまで「私の当事者研究の捉え方」としてご理解ください。

「助けてが言えない」人は療法士にもいる

 先生の講義の中で「助けてが言えない人がいる」ということに強く共感しました。これを少し療法士に置き換えて考えてみたのですが、「医療者は助けてと言ってはいけない」という考えが頭のどこかにあったりしないでしょうか。僕はこれをずっと感じていて、医療者としての態度や倫理観として「助けてと言ってはいけない」と思っていたんです。それが当事者研究をする際の一つの障壁になっていたことに、講義を振り返って気づいたんです。例えば、知っている医療従事者同士が集まる場所であれば「困っているから助けてほしい」と言うことはできます。では、それを当事者の人たちに言えるかと問われると答えはNOです。当たり前のように感じますが、それを分け隔てているものは当事者と支援者という立場だと思うのです。前述したように私はすべての人に当事者と支援者の側面があると考えていますが、その前提で考えると「助けてと言える」はずなんです。では、そこで感じる違和感の正体は何なのか?それは単純にみんな前提や視点が違うからだと思います。僕自身は「助けてほしい」と言うことはできても、受け手側の人たちが違う考えを持っていて受け入れてもらえなければ、僕の「助けて」は誰にも届かないことになります。そのつらい未来がどうしても浮かんでしまうのです。ただ、この(医療者が助けてと言えない)状況は、少なくとも僕の中にあることがわかりました。そして、そのように感じている人がもしいるのであれば、僕はただ「聞いてあげたい」と思うのです。療法士ならではの悩み、生きにくさ、つらさを話しながら、自分自身と向き合える場所が、この世界のどこかにあってもいいじゃないかと思うのです。

終わりに

 長くなりましたが、熊倉先生に出会い、講義を聞くことができたことで、僕は自分自身と向き合うことができました。部分的にはつらい時間でしたし、嫌な気持ちもしました。でも、自分たちがしていること、向かおうとしている場所にかかっていた霧は晴れてきています。初めての研究会で得たものはとても大きく、かけがえのない時間でした。さて、僕はだいぶ吹っ切れたので、これから自分自身と向き合うために当事者研究をやっていこうと思います。気を付けるところは気を付けながら、前に進みます。よろしければ、みなさんも一緒にやってみませんか?

喜多一馬

 人に不快なことはしない方がいいし、誰かが誰かに不快なことをして欲しくないし、誰かが誰かに不快なことをしているのを見たくない…という気持ちが割と強くあります。さて、『療法士の当事者研究』をやってみよう!となってから、僕はこの問題に直面しまくってしまい、どうしたものだろう困ったなぁ…となっていました。今は少し違うけど。今回はそんな話を少しだけ。

医療者の内なるスティグマに身動きが取れなくなる

 2019年9月、須藤さんと僕とで田島先生の研究室に突撃しました。その様子はこちら。そこで「熊倉先生に『医療者の内なるスティグマ』の講演をお願いしよう、私たちはそこから始めよう!」ということになります。「スティグマ?クマ?」となったのですが、その後に『当事者研究と専門知(臨床心理学増刊 第10号)』を読んで、その大切さがすごく分かります。熊倉先生の講演レポートを引用しますと、この部分。

当事者の方達が、専門職の権力や、専門知による支配に対抗する形で、自分たちの手で自分のことを物語ることばを取り戻すという運動性が、当事者研究には含まれていると思うんですね。それを対人支援の専門職が、再び奪い返してしまうようなことになるのではないかという懸念があります。ここで自分達が気をつけなければいけないのは、そこに歴然と、資格や支援する/される関係性の中での権威勾配が存在しているのにも関わらず、専門職があたかも同じ立場であるかのように「私も同じように辛いんだよ」と言い出すことではないかと思います。

 もしかすると、僕たちが当事者研究というものをしようとすること自体が人を傷つけることになってしまうのではないかな…え、じゃあどうすればいいんだろう…。となりました。

全然、解決しない

 この疑問が払拭されないまま、2020年1月の研究会vol.1を迎えます。きっとこの場で熊倉の講義を聴いて、当事者研究に精通した参加者の人たちに話を聴いて、僕の疑問をぶつければ解決されるはずだ!そんなことを考えながら、大阪から東京に向かいました。でも、結果として、僕のそんな疑問は解決されませんでした。いや、厳密には「支援者の当事者研究ってもっと気軽にやってるんだよ!」と教えてくれた人がいて、それに少し助けられたのですが、僕自身のなかで十分にすっきりするものではありませんでした。どうしよう、困ったなぁ…。

少し、見えてくる

 それから、運営メンバーで実際に当事者研究をやってみたり(その様子はこれから記事としてアップしていきますね)、あれこれどうだろうと連絡を取り合ったりしました。そのなかで、少し僕の疑問が解決しそうな気配が出てきます。熊倉先生の講演レポートです。当初は熊倉先生の講演を録音したものを文字起こしして、コンパクトにまとめたものをサイトに掲載する予定でした。でも、熊倉先生はレポートを一部加筆修正していただきました。そこで僕のなかでゆっくりと何かが繋がっていきます。

 支援者の当事者研究においては、自らのもつマジョリティ性とマイノリティ性、両方それぞれを自覚していくということが必要な営みなのではないかと思います。

 村上春樹が2009年にエルサレム賞を受賞した時に、受賞スピーチで「壁と卵」という話をしました。「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるとすれば、私は常に卵の側に立つ。」というスピーチですね。壁はシステムのメタファー、卵は個人ですね。システムが個人を踏み潰してしまうことがある。壁としての対人支援のシステムが、卵としてのクライエントを潰してしまうことがあると思います。そして、壁としてのシステムが、卵としての対人支援の専門職を潰してしまうこともまたあると思います。そういうことに目を向けて、解明して、新しい物語を紡いでいくということが、「支援者の当事者研究」なのではないかと思います。

 そうかそうか、そんなにきれいじゃなくていいんだな。そういうバランスのとり方だよな。思い返すと研究会vol.1のときに田島先生が「療法士ってなんかきれいで在りたがる人多くないですか?」みたいなことを言ってたよな、あぁ、そうだよな。なんてことを考えて、少しずつ整理が出来てきます。

 あと、運営メンバーでのやりとりのなかで、遠山さんが「プリズン・サークルという映画を見ましょう、そこにヒントがあると思います」と言ってくれました。映画を見てから、みんなで感想を言い合う予定です。*みんな!オンラインで配信されるってさ!もし興味があれば見て語りましょうね!

映画:プリズン・サークル https://prison-circle.com/

「療法士の当事者研究って本当にしてもいいんだろうか…」という僕の疑問が少しずつすっきりしてきて、なんか上手く自分の言葉で自分を納得させれそうなところまできてるような気がします。もう少し時間と考えとみんなの話があれば、なんか解決しそう。

あんまり焦らず考えてみよう

 そういえば、哲学者の永井均が「他者が問題と感じてなくても、あなたにとって大切な問題と感じているならば、それはあなたにとってのみ立ち上がった問題だから大事にしようね、それが哲学をする唯一の理由だよ」みたいなことを書いていたような気がします(原文は絶対にこんなのではないので、信じないでください)。誰かにとっての問題や大切なことは、他の誰かにとってもそうなのかもしれませんし、他の誰かにとってはそうではありません。でも、そんなことはひとまずどうでもいいですよね。

 ということで、僕にとっての大切なことをもう少し考え続けてみようかなぁ。なんてことを考えています。

楠田奈緒子

 療法士の当事者研究会に運営として関わっております、理学療法士の楠田です。理学療法士になって今年で11年目、回復期リハビリテーション病院、一般病院を経て現在は訪問看護ステーションに勤務しています。7年前に結婚、現在は5歳になる娘がいます。向学のために研修には参加するけど、何か一つの分野に秀でて知識があるわけでもなく、学会発表や研究活動に熱心なわけでもない、どこの職場にもいる、普通の“ママさんPT”です。

 Twitterがきっかけでこの研究会を知り、ご縁があって運営として関わることとなりました。何ができるわけでもないけど、何かせずには居られない、第一回目の研究会を終えて今に至るまで、考えたことや感じたことを素直に書いてみようと思います。

当事者研究とは

 当事者研究が如何なるものか、巷には書籍が溢れ、すでにサイトでもたくさんの説明がなされていますが、その実態は私にとって未だ形のないものです。“研究”と名がつくからにはアカデミックなものだろう、そんなイメージを持って飛び込んだものの、その成り立ちから軌跡を辿ると、それは微妙にピントのずれた感覚であることに気付かされます。

「誰が、何を、どんな風に、誰に向けて発信するのか」、『療法士の当事者研究』をそこに落とし込んでしまうと、講義の中で熊倉先生が指摘された通り、そこには“支援者が辛さを語る暴力性”が生まれ兼ねません。

 しかし、第一回の研究会や運営メンバーでのミーティングを重ねるうち、“支援”というシステムに組み込まれた私達療法士の一人ひとりが、“個人”としての自分があることを思い出し、目を向けて掘り下げていくという経験は、療法士である私達自身の視点や在り方を見つめ直す、“新しい何か”を生み出してくれるのではないか、と思い始めました。

当事者研究をやってみた

 先日のミーティングで、私自身が当事者となって『当事者研究』をする機会をいただきました。そこでの私の悩みごとは少しプライベートなものでしたので、詳細は割愛いたしますが、「自分の中のモヤモヤを曝け出す」、「他者から見たモヤモヤが言葉になる」、「次に起こすアクションを自分で絞り出す」の3つの要素を経験しました。当たり前の話ですが、自分の顔は自分では見えません。それ故自分の中のモヤモヤを、他者の手を借りて実態化し、客観視する作業は、確かにそれまでの視点や世界観に変化をもたらすものでした。

療法士の当事者研究

 実体験を伴うと、初期に比べて『療法士の当事者研究』は「誰が、何を、どんな風にする」ものなのか、少しずつ、ぼんやりとではありますがその輪郭が見えてきました。ただ、“誰に向けて”発信するのか、その部分は依然として曖昧です。

「結局、ただの愚痴大会になったら嫌だな」、「言語化すると、思っていたより攻撃的な言葉が生まれたり、嫌な出来事を無理に思い出して、返って傷ついてししまわないかな」、素人意見で恐縮ですが、本音を言えばそんな不安も抱えています。

 ただ、療法士であると同時に、一人の“個人”である私達が、それぞれが喜んだり傷ついたりした物語に目を向け掘り下げて、必死になって考えていたら、おのずと世界のことを考えざるをえなくなるのではないか、社会全体に繋がった視点が要るのではないか、そしてもっと大きなマスに向けた意義が生まれるのではないか、という勝手な幻想を抱くようになりました。

 『療法士の当事者研究』は、田島先生をはじめ他の運営メンバーの記事にもあるように、「大いに可能性を秘めたもの」としてとても意義のあるコンテンツだと思います。なんだか回りくどいことばかり書いてしまいましたが、こんな風によくわからないまま突っ走ってる私を、「言いっぱなし、聞きっぱなしでいいんだよ」と温かく見守ってくださる優しい研究会です。どうかお気軽にご参加いただけたら嬉しいです。 

平石暢之

 私は、『療法士の当事者研究』について、正直概要すら掴めていない状態から、勢いで運営を手伝わせていただくこととなり、一抹の不安を抱きながら当日の講習会を迎えることとなりました。今回は、そんな私が『講習会』を受けて感じたこと、『療法士の当事者研究』をどのように落とし込み、今後、生かしていこうと考えたかをお伝えします。

講習会を受けて

 私は、仕事や家庭の中で「不甲斐なさ」や「理不尽」と感じることが多々あります。熊倉先生の講演のなかで、スティグマという言葉が出てきました。私は、自らにもそのスティグマ(こうしなければならない、こうあらなければならない)をかし、上記のような思いを感じていたことに気づきました。

 そして、グループワークの中で、このスティグマは自身だけではなく、参加された皆様が大なり小なり抱えているものだと知ることができました。(これは、私自身、目から鱗で、少しホッとしたのを覚えています。)

 スティグマはどのように形成されているのか?

 熊倉先生の講演で、構造的スティグマという言葉が出てきました。構造的スティグマは、規範やルールや法律や価値観など、社会に埋め込まれている、様々な構造的な要素に宿っているスティグマで、まさに、療法士を取り巻く医療制度や療法士の暗黙知が影響していると附に落とすことができました。

今後の当事者研究

 療法士個人が抱える課題を深掘りし、その構造やマジョリティvsマイノリティの関係性を解き明かしていくことが必要ではないかと感じました。そして、この深掘りするプロセスが対人支援に向けて視座を与えより深みのある支援が行えるのではないかと感じています。

 そのために、まずは深掘りする作業が重要です。自分と向き合うことはしんどい部分もありますが、私は、改めて自身と向き合い、自身の思いを言語化できたことは、新たな気づきを生み、より良い体験となりました。

 逆に、自身と向き合うことやそれを言語化し他者に伝えることは、”変なことは言えない”、”蔑まされてたらどうしよう”といった、「恥じらい」や「後ろめたさ」を感じたのも事実です。いかに、自身と向き合うための障壁を取り除いていくか、現象として捉えていけるか?この辺りの環境や雰囲気作りは運営でも考えて行かなきゃいけないと感じました。

最後に

 ここまで、私が『講演会』の中で感じたこと、『療法士の当事者研究』をどのように落とし込んだかをお伝えしました。これは、あくまでも当事者研究の初心者である私が感じたことで、今後、研究会が進むにつれて考え方は変化するのだと思います。それでも、この当事者研究が対人支援(臨床、マネジメント)ひいては自身の人生にもより良いものとなるのではないかと感じています。

 ぜひ、一緒に療法士の当事者研究を学び深めていけると嬉しいです。